サーフィン歴7年(年に数回のへっぽこ)、英語はからっきし(中学一年レベル)の
人見知りオヤジが挑んだハワイ一人旅! 連載形式でお届けします
ハレイワの町を北上していくと、やがて店の姿が消え、小さな白い橋が見えてきた。そういえばバスであそこを通過したような。その橋にさしかかる。いやしかし、すごく暑い。ちょっとフラフラだ。
橋にさしかかったところで川に目を落とすと、SUP(スタンドアップパドルボード。サーフィンのロングボードのような板の上に立ち、オールで漕いで進む)で遊んでいる人たちがチラホラ見えた。橋は高くなく、川はすぐ数メートル下だ。日本人女性と目が合い、微笑んでみせると、むこうも照れくさそうに微笑み返してきた。ルール違反の日本人との接触だけど、会話じゃなくて笑顔の交換だ。これくらいのハッピーなことなら構わないだろう。
橋を越えると、すぐに見えてきた。黄色い建物、そうだ、あれがSurf N seaだ。道路の反対側から写真を一枚、パチリ。そして僕はクルマの往来が途絶えたタイミングを見計らい、店に向かって駆け出した。
店の前には販売されているサーフボードがずらりと立てかけられている。日本のサーフショップのように、絶対に傷をつけないようにと神経質なほどに丁寧に区切られて置かれているのとは違い、ちょっと雑なくらいに並べている。そこがまた、いい。
僕は店の中に入った。店の中に入るや否や、グワンときた。持病の眩暈だ。うわー、こんなときに。恐らくあまりの暑さと、旅疲れだ。そのせいで首と肩が凝り固まって、頭への血流が悪くなっているに違いない。ダメだダメだ、しっかりしろ、と言い聞かせ、店内を見てまわる。
店内の品ぞろえだけど、さっきのパタゴニアにも言えることだけど、うん、まあ、なるほどね、といったところだった。自分がショッピングをメインに据える人間じゃなくてよかったと、つくづく思う。
日本の、しかも東京に住んでいれば、今日日もはや手に入らないものなど無きに等しい。希望する商品の高い安いといった問題で、海外で買い物をする価値というのはあるとは思うけど、そういう理由がないのであれば、ここまできて特段これがほしい! と思えるものになどなかなか出会えるものではない。
ワイキキもそうだったけど、サーファーにはおなじみの、QuikSilver, VOLCOM, RIPCURL, BillaBong, Hurley などのサーフブランドがあちこちに店を構えているものの、それらブランドのアパレル品は、正直言って東京の街で着て歩けるかと言われると、ちょっと抵抗があるデザインのものが多い。このハワイの地で着る分にはかまわないのだけれど。
そんなこんな、これといって自分用に欲しいと思えるものもなし、お土産にほしいと思えるものもなし、と若干がっかりした気持ちで店をそろそろ出ようかと思い立ったそのとき、キャッシャー近くのガラス張りのショーケースの中に、うわ欲しい! と思えるものを見つけた。ヘザーブラウンのデザインのI-phoneケースだ。
ヘザーブラウンのアートが僕は大好きで、僕は店員を呼びつけ、これを見せてくれ、と頼んだ。海沿いを歩くガールズサーファーの後ろ姿。手にとってサイズが合うことを確認した僕は、それを買うことにした。
店員が商品を袋に詰める間、英会話というのはとにかく片言でもどんどんしゃべらなきゃダメだと思い、僕は店員にこう話しかけてみた。
「I came from Japan. Gift for……」
僕は日本から来た。それは家族への贈り物なんだ。と言いたかった。通じたのか意図を汲んでくれたのか、店員の女性はデザインの女の子を指差し、「Girl friend?」と返して微笑んだ。うーん、でもまあ、そんな解釈もまた、いいかもな。僕は少し間をおいて、「yes」と返して笑った。
キャッシャーに募金箱のようなものがあり、財布の中に1セント硬貨がたんまりあって邪魔だと思っていた僕は、財布からそれをわしづかみにすると「I don’t use coin」と、意味を成しているのかどうかわからない言葉を並べ、そこへジャララと落とした。
店を出ると、髪をピンクとグリーンのグラデーションに染め上げている、サングラスをかけて鼻ピアスをしたファンキーな女性店員が店先にいたので、「Will you take my photograph?」と声をかけ、写真を撮ってもらうことにした。
有名なこの店の、SURFER X-INGのロゴ。サーフボードを抱えて走る女の子のシルエットロゴの看板のそばで、一枚写真を撮ってもらった。
デジカメを返してもらうタイミングで「with me?」と言い、続けていっしょに撮ってもらうことにした。断られやしないかとドキドキしたけど、お姉さんは快く応じてくれた。
さて、シャッターを押してもらうため誰か人を呼ぶべきか、とあたりの様子を窺ったところ、お姉さんはOK、OKと僕のそばに寄ってきた。お姉さんは僕の右側に立つと、右手でデジカメを持ち、僕らの方へ向けた。シャッターボタンはお姉さんの遠い側にある。届くか? 僕が左手で持って押した方がよさそうだと思った瞬間、お姉さんのすらりと長い白い指先がシャッターボタンに触れた
「1, 2, 3…」
お姉さんのカウントダウン。僕はぎこちない笑顔とともに、アロハポーズを掲げた。
Surf N seaを出て橋を渡って戻り、ハレイワタウンの出入り口付近にまで戻ってきた僕は、さらに北上するためバス停にやってきた。アラモアナから乗ってきた52番バスではなく、55番バスに乗らなければならない。次なる目的地は、ウミガメを見ることができるというラニアケアビーチだ。
ここでしばらくバスを待ったものの、例によって待てど暮らせどバスが来ない。喉も渇き、疲れを考慮した僕は、道路の向こうにあるセブンイレブンへ行って水とハイチュウを買い、またバス停に戻った。
よく見ると数多くいる待合客の中に、新婚夫婦らしきペアルックの日本人がいた。一目でわかったのだけど、かなりここでバスを待っているようだった。男の人のほうが道端に座り込み、汗だくで、その白い肌は真っ赤に日焼けしてしまっている。一方、女の人は、少し距離を置いた日陰で後ろを向いて、不機嫌そうにしている。
僕はその様を見て、ああ、一人でよかった、と思った。この効率の悪さや無駄を楽しめるのは、まさに一人旅の醍醐味だ。これが複数人になると、数が多ければ多いほど、もめごとに繋がってしまう。
朝のサーフィンをほどほどに終えてもまったく不満が残らなかったように、僕はこの旅で、本当に自由気ままに振る舞えているんだという実感が湧いてきた。
旅に臨む姿勢とその結果は、大きく四つに大別できると思う。
綿密に計画し、そして計画通りにあれこれできる人。
綿密に計画したつもりなんだけど、うまくいかない人。
無計画なんだけれど、要領よくあれこれできる人。
無計画で、案の定、なにもできない人。
僕は自分のことを、最後のパターンの人だと思っている。ただ少し違うのは、何もできないのではなく、何もやらない、のニュアンスに近いというところだ。
そういえば友人が言っていた。ハワイ旅行へ行ったとき、ツアーの予約をとって、リムジンを手配し、五人で朝から晩まであちこち回ったのだという。買い物から飲み食いから観光からアクティビティまで、ギッチリ詰め込むらしい。どうだ! ハワイに来たからには買うべきもの飲むべきもの食うべきもの見るべきものやるべきこと、すべて網羅してやったぜ! というプランニング。
集団行動するのなら、このような計画性はとても大事だと思う。だけど連れ添う人間の数が減れば減るほど、もっとゆとりをもって、もっと呑気な方へとシフトしてもいいのにな、と僕は思う。
そこにいる夫婦、とくに、不機嫌になっている奥さんが考えているであろう「段取りの悪さ」、その点に対して怒り心頭になるというのが僕にはよくわからないのだ。
『☆☆へ旅行に行ってきたの! ○○と□□を見てきたよ!』
『えーいいなー。あ、ねえ、△△は見た?』
『あ、それ見てない』
『えー、せっかく☆☆へ行ったんなら△△見なきゃ』
『そっかー。でも○○と□□も超キレイだったよ!』
海外旅行から帰ってきたあとの友達とのやりとりにおいて、こんな会話を繰り広げている人たちを山のように見かける。○○を見てきたよ、の部分には、○○を食べてきたよとか、○○を買ってきたよ、のパターンもあるのだけど、繰り広げられるやりとり自体はほぼ同じ。で、人の幸せを素直に喜んであげられず通ぶった茶々を入れてばかりの友人が最終的には、
『でもいいなー。超うらやましい』
などと言い、
『ホントもう、超たのしかったよー』
と呑気に締めくくって終わる。
こういう人たち、さすがに旅行に行っている最中は本当に楽しんでいるのだろうし、そもそも楽しみ方は人それぞれだから僕はそれを非難も否定もするつもりはないけれど、でも僕にはどこかそういった旅が、人に文句を言われずにすむ結果を持ち帰らなければいけない、という強迫観念に満ちた、自分と他人への言い訳のような旅に思えてならない。
バスがなかなか来ない。別にいいじゃないか。日本から遠く離れたこの異国の地で、オアフ島のハレイワタウンで、30分、40分、1時間? ハワイの陽を浴びながら、小鳥のさえずりを聞きながら、高く突き抜ける青空とたゆたう白い雲を仰ぎながら、愛するパートナーと汗をかきながら語り合えばいいじゃないか。たかが水がとても美味しく感じられるチャンスじゃないか。ペットボトルの冷たい水を分け合って、美味しいねって、唇から滴る水を拭って笑い合えればいいじゃないか。
僕は、そんな風に思う。
だけどそんなことがおいそれとできるものではないこと、そんな考え方をわかってくれる人なんてなかなかいないということはわかっている。そしていま僕は、誰に咎められるでもなく自由気ままに、自分のやり方で自分の幸せを掴むことを許されている状況にあるのだということも、知っている。
(つづく)
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